自由になろうとして、過去に縛られてしまう人間の話

雑感コラム

父が外で働いていないように見えたことで、その父を軽蔑し、
「自分は父のようにはならない」
と、決めた男性の話を読んだ。

この話がどこまで実話で、どこまで脚色されているのかは分からない。

正直、そこはもう、あまり重要ではない気もした。

気になったのは、その人の人生そのものではない。
その話の中に、人間がよくやってしまう愚かさのようなものが見えたことだった。

人は、自分に見えないものを軽く見る。
自分の痛みだけを大きく見る。
誰かへの反発を、自分の意思だと思い込む。
受けた影響を、受けていないことにしたがる。
自由になろうとして、逆に過去に縛られる。

そして、かなり遅れてから気づく。

あれは自由ではなく、ただの執着だったのかもしれない、と。

見えないものを、ないものとして扱ってしまう

その話に出てきた父親は、外で会社員として働いていたわけではなかったらしい。

家にいる。
子どもの学校行事に来る。
家事や子育てを担う。
不動産管理のような、外からは見えにくい仕事をしている。

子どもの目には、それが「働いている姿」には見えなかった。

もちろん、子どもに不動産管理の大変さを理解しろというのは難しい。

家賃、修繕、入居者対応、税金、土地の管理。
そんなものを小学生が理解できるわけがない。

ただ、ここで怖いのは、子どもの未熟さそのものではない。

見えないものを、ないものとして扱ってしまう人間の癖だ。

父の仕事は見えなかった。
だから、働いていないように見えた。

家庭の中の細かな負担も、外からは見えにくい。
家事も、育児も、誰かの体調を気にすることも、家庭の空気を保つことも、数字にはなりにくい。

数字にならないものは、軽く扱われやすい。

でも、本当はそういうものが生活を支えている。

見えないから価値がないのではない。
見ようとしないから、価値がないように感じてしまうだけなのだと思う。

人は、受けた影響をなかなか見ようとしない

人は、自分が何かに影響されているとは、あまり思いたがらない。

自分で考えている。
自分で選んでいる。
自分の意思でこう生きている。

そう思いたい。

でも実際には、子どものころに聞いた一言や、家庭の中に流れていた空気や、周囲と違うことへの恥ずかしさのようなものが、かなり長く残っていることがある。

それは、大きな傷というより、小さな破片に近い。

普段は忘れている。
けれど、人を判断するとき、自分の価値を証明しようとするとき、誰かを見下すとき、ふいに顔を出す。

自分は影響なんて受けていない。
自分は自分で選んだ。
自分はもう過去から自由だ。

そう思っているときほど、案外あぶないのかもしれない。

影響は、見えない。

でも、見えないから存在しないわけではない。
見ようとしないから、見えていないだけなのだと思う。

そして、見ようとしない限り、その影響の縛りはほどけない。

子どものころ、父が家にいることが恥ずかしかった。
ほかの家庭と違うことが嫌だった。
周囲に説明できないことが苦しかった。

そういう感覚は、本人にとってはかなり大きかったのだと思う。

他人から見れば、
「資産があるならいいじゃないか」
「父親が家にいてくれるなら恵まれているじゃないか」
と思うかもしれない。

でも、人間はそんなに単純ではない。

恵まれていることと、本人が苦しくないことは別だ。

自分の痛みをうまく言葉にできないと、人は誰かを悪者にしてしまう。

本当は、父が嫌いだったのではないのかもしれない。
自分の家庭をうまく説明できないことが恥ずかしかったのかもしれない。
周囲と違うことに傷ついていたのかもしれない。

けれど、子どもはそこまで整理できない。

だから、全部まとめて、
「父のようにはなりたくない」
になる。

反発で選んだ人生は、自由なのか

父のようにはなりたくない。

この感情は強い。

人を動かす。
努力させる。
遠くへ行かせる。

だから、一見すると、それは自立のように見える。

でも、少し立ち止まって考えると、かなり危うい。

父のようになりたくない。
だから父の逆を選ぶ。

けれど、父の逆を選んでいる時点で、
人生の基準はまだ父にある。

これは自由なのだろうか。

父と同じ道を選ぶことが不自由なのではない。
父と逆の道を選ぶことが自由なのでもない。

どちらにしても、基準が父である限り、
まだ父に縛られている。

人は、嫌っているものからも強く影響を受ける。

むしろ、嫌っているものほど、心の中に居座る。
忘れたいものほど、人生の判断基準になってしまう。
否定したい相手ほど、自分の中心に残ってしまう。

親から自由になろうとして、
親への反発を人生の中心に置いてしまう。

これは、かなり人間らしい愚かさだと思う。

本当の自由とは、父と同じ道を選ぶことでも、父の逆を選ぶことでもない。

自分は何に縛られていたのか。
何を恥ずかしいと思っていたのか。
誰に認められたかったのか。
何を証明しようとしていたのか。

そこに気づくことなのかもしれない。

お金があっても、執着は消えない

この話で皮肉なのは、お金がまったくない家庭の話ではないことだ。

むしろ、資産はあった。
生活の土台もあった。
本人も後に働き、稼いだ。

それでも、幸せそうには見えない。

ここに、お金の難しさがある。

お金は大事だ。

お金があれば、避けられる不幸はある。
嫌な場所から離れられる。
選択肢が増える。
時間を買える。
不安を減らせる。

だから、お金を軽く見るつもりはない。

ただ、お金があれば自動的に自由になれるわけでもない。

通帳残高では、子どものころの恥ずかしさは消えない。
肩書きでは、親への反発はほどけない。
収入が増えても、見えない仕事を軽く見る癖は直らない。

資産があっても、自分が何に縛られているのか分からなければ、どこか不自由なままだ。

自由というのは、単に選択肢が多いことではないのかもしれない。

選択肢があっても、選ぶ基準が過去への反発なら、
それはまだ過去に支配されている。

お金は、現実を変える力を持っている。
でも、自分の中の執着までは、勝手には消してくれない。

正しさで人を傷つけることがある

人間は、自分が間違っているときだけ人を傷つけるわけではない。

むしろ、自分が正しいと思っているときほど危ない。

自分は働いている。
自分は稼いでいる。
自分は家族のために頑張っている。
自分は父のような男ではない。
自分は自分の力で生きている。

これらは、本人の中では正しい。

実際、間違いではない部分もある。

働くことは大事だ。
稼ぐことも大事だ。
家族を養う責任もある。
自分の力で生きようとすることも立派だ。

でも、その正しさが強くなりすぎると、
他人の痛みが見えなくなる。

家にいる人間を軽く見る。
低い時給の仕事を見下す。
家事や育児を当然のものとして扱う。
自分の稼ぎだけを、家族への貢献だと思い込む。

正しさは、時々、人を雑にする。

「自分は間違っていない」と思っているときほど、
他人の声が入らなくなる。

だから、軌道修正できない。

失敗している自覚があれば、まだ止まれる。
でも、成功していると思っているとき、人はなかなか止まれない。

これもまた、人間の愚かさだと思う。

失ってからしか分からないものがある

人間は、たぶんかなり遅れて気づく。

親がいなくなってから、親の事情に気づく。
家族が離れてから、家族が担っていたものに気づく。
年を取ってから、自分が何に怒っていたのかをようやく考え始める。

間に合ううちに気づければいい。

でも、だいたいは間に合わない。

若いころは、自分の痛みでいっぱいになる。
働き盛りのころは、自分の正しさでいっぱいになる。

そして、少し遅れてから、ようやく他人の事情が見えてくる。

遅い。

でも、その遅さも含めて人間なのだと思う。

失ったものは戻らない。
言ってしまった言葉も消えない。
離れた人が戻ってくるとは限らない。

それでも、気づいた後にどう生きるかは残る。

そこに少しだけ救いがある。

まとめ:自由のつもりで、過去に縛られていないか

この話に出てくる人の人生そのものに、強い興味があるわけではない。

ただ、その人生の断片から見えるものには、考えさせられる。

人は、自分に見えないものを軽く見る。
自分の痛みだけを大きく見る。
誰かへの反発を、自分の意思だと思い込む。
自分が受けた影響を、なかなか見ようとしない。
お金があれば自由になれると思う。
正しいことをしているつもりで、人を傷つける。

そして、失ってから気づく。

自分が自由だと思っていたものは、
ただ過去への反発だったのかもしれない。

自分の力で選んだつもりの人生は、
実は、ずっと誰かを否定するための人生だったのかもしれない。

これは、なかなか痛い話だ。

でも、いい歳になってから考えるには、
案外ちょうどいい問いなのかもしれない。

自由とは、好きに生きることや、お金を持つことだけではないのかもしれない。
誰かに勝つことでも、親と違う人生を選ぶことでもない。

たぶん、自分が何に縛られているのかを知ること。

そして、その縛りを自分の人生そのものだと勘違いしないこと。

そんなことを、この話から考えた。

もちろん、分かったように書いているだけで、
自分だって、何に縛られているのか本当には分かっていない。

だから、少し引っかかったのだと思う。

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