パタヤという街は、男の欲望をかなり分かりやすく見せてくる。
酒、夜、女、お金、孤独、快楽。
普段はきれいな言葉で隠されているものが、あの街には普通に並んでいる。
もちろん、パタヤはそれだけの街ではない。
海もある。ホテルもある。のんびり過ごす時間もある。何もしない贅沢もある。
ただ、自分にとってパタヤは、ただの観光地ではない。
男の欲望や孤独、自由への憧れが、妙に分かりやすく見えてしまう場所でもある。
だからこそ、ふと考える。
男は、自分の欲望からどこまで自由になれるのか。
パタヤは、欲望をあまり隠さない
日本で普通に暮らしていると、人間の欲望はわりと隠されている。
見栄もある。
世間体もある。
社会的な立場もある。
それなりに大人として振る舞う必要もある。
だから、欲望はきれいな言葉で包まれる。
恋愛。
癒やし。
出会い。
自分へのご褒美。
人生を楽しむこと。
たまには羽を伸ばすこと。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
人間は、欲望をむき出しにしたままでは社会生活を送れない。
ある程度、言葉で整えることも必要だと思う。
ただ、きれいな言葉で包んだからといって、欲望そのものが消えるわけではない。
男には、女に惹かれる心がある。
若さや美しさに反応する心がある。
受け入れられたい気持ちがある。
誰かに必要とされたい気持ちがある。
現実から少し離れたい気持ちもある。
それらは、現代的な言葉でどれだけ整えても、簡単には消えない。
パタヤという街は、そのあたりをあまり隠していない。
だから、見ていて少し疲れるときもある。
でも同時に、妙に正直な街だとも感じる。
綺麗ごとだけで人間を見ると、現実が見えなくなる
現代的には、人は理性的で、互いを尊重し、対等な関係を築くべきだ。
それは正しい。
正しいし、大事なことだと思う。
ただ、その正しさだけで人間を説明しようとすると、どこかで現実が抜け落ちる。
人間には、欲望がある。
嫉妬がある。
独占欲がある。
快楽への執着がある。
選ばれたい欲がある。
失いたくない恐怖がある。
若さや美しさに反応する心もある。
それを「そんなことを考えるのはよくない」と消してしまうと、現実の苦しさが見えなくなる。
男が女に振り回されるのも、単に精神が未熟だからだけではない。
もっと根っこの部分で、異性に惹かれ、近づきたいと思い、受け入れられたいと感じるようにできている。
これは、良い悪いの話ではない。
生き物として、そういう反応があるという話だ。
問題は、欲望があることではない。
欲望があることを見ないまま、その欲望に人生のハンドルを握られてしまうことだと思う。
男は女に縛られているのか
女に縛られている。
そう言うと、まるで女が男を縛っているように聞こえる。
でも、本当は少し違うのかもしれない。
男を縛っているのは、女そのものではない。
女に惹かれる自分。
女に近づきたい自分。
女に受け入れられたい自分。
女を失いたくない自分。
女が他の男を見ることに反応してしまう自分。
つまり、外側にいる女ではなく、内側にある欲望の反応に縛られている。
返信が来ないだけで不安になる。
少し優しくされただけで期待する。
他の男の影を感じると焦る。
手に入らないと苦しくなる。
手に入れたら、今度は失うのが怖くなる。
これは、女が悪いという話ではない。
自分の中にある欲望が、勝手に燃え上がり、勝手に期待し、勝手に苦しみを作っている。
そう見た方が、たぶん現実に近い。
女を憎んでも自由にはならない
ここを間違えると、話は一気に安くなる。
女はこういうものだ。
男は騙されるな。
恋愛はくだらない。
女に執着する男は負けだ。
そういう方向へ行くのは簡単だ。
でも、それではたぶん自由にはならない。
女を憎んでも、結局は女に縛られている。
女を神格化しても、やはり女に縛られている。
女を所有しようとしても、さらに苦しくなる。
大事なのは、女をどう評価するかではなく、自分の心がどう反応しているかを見ることだと思う。
なぜ惹かれるのか。
なぜ追いかけるのか。
なぜ手に入らないと苦しいのか。
なぜ他の男の存在に反応するのか。
なぜ快楽を求めているはずなのに、気づけば不自由になっているのか。
そこを見ないまま、外側の女だけを語っても、たぶん何も変わらない。
お釈迦様なら、これは執着と見るのかもしれない
仏教を専門的に語れるほど詳しいわけではない。
ただ、かなり雑に言えば、お釈迦様ならこの問題を「女が悪い」とは見ない気がする。
惹かれる心。
快楽を求める心。
所有したい心。
失いたくない心。
思い通りになってほしい心。
そこから苦しみが生まれる。
つまり、問題は女そのものではなく、そこに生まれる執着なのだと思う。
だからといって、「女に関心を持つな」と言いたいわけではない。
「欲望を全部消せ」と言いたいわけでもない。
それは、あまりにも現実離れしている。
男は女に惹かれる。
若さや美しさにも反応する。
誰かに受け入れられたいとも思う。
それは、綺麗ごとでは消せない。
ただ、欲望があることと、欲望に支配されることは違う。
ここを分けて考えたい。
自由とは、欲望がなくなることではない
自由というと、何にも縛られない状態を想像する。
女に興味がなくなる。
嫉妬もしない。
何も求めない。
何にも反応しない。
お金にも、快楽にも、承認にも動かされない。
でも、それは少し違う気がする。
少なくとも、普通に生きている人間にとって、欲望が完全になくなることはない。
女に惹かれる。
快楽を求める。
お金が欲しい。
自由な時間が欲しい。
認められたい。
楽をしたい。
そういうものは、たぶん消えない。
だとしたら、自由とは、欲望がなくなることではない。
欲望があることを知ったうえで、そこに人生を丸ごと持っていかれないこと。
女に惹かれる自分を否定しないが、女の反応で自分の一日を壊さないこと。
快楽を求める自分を認めるが、その快楽に時間も金も尊厳も全部差し出さないこと。
自由になりたいと言いながら、別の依存に捕まっている自分に気づくこと。
その距離感が、自由に近いのかもしれない。
パタヤで見えるのは、他人ではなく自分かもしれない
パタヤにいる男たちを見て、何かを思うことはある。
楽しそうな人もいる。
疲れて見える人もいる。
若い女に夢中になっている人もいる。
ただ酒を飲んで、ぼんやりしている人もいる。
何かから逃げてきたように見える人もいる。
でも、それを外から笑って終わるのは簡単だ。
本当は、そこに自分の一部を見ているのかもしれない。
女に惹かれる自分。
若さに反応する自分。
自由を求めながら、快楽に縛られる自分。
現実から離れたいと思いながら、結局は別の欲望に捕まっている自分。
パタヤは、そういうものを少し見えやすくする。
だから、面白い。
そして、少し怖い。
欲望を見たうえで、どう生きるか
男には、欲望がある。
それを否定しても仕方がない。
綺麗ごとで塗りつぶしても、消えるわけではない。
ただ、欲望があるからといって、そのまま欲望の言いなりに生きるしかないわけでもない。
女に惹かれる。
それはある。
若さや美しさに反応する。
それも、たぶんある。
快楽を求める。
それもある。
でも、その反応を見たうえで、自分の人生をどこまで差し出すのか。
ここは考えられる。
欲望を消すのではなく、欲望を見る。
本能を否定するのではなく、本能に支配されている瞬間に気づく。
女を憎むのではなく、自分の中の執着を観察する。
これができれば、少しだけ自由に近づけるのかもしれない。
男は、自分の欲望から自由になれるのか
男は、自分の欲望から自由になれるのか。
完全には難しいのかもしれない。
でも、少なくとも、自分の欲望を見ないまま振り回され続けるよりは、その欲望を見たうえで、少し距離を取ることはできる。
女に惹かれることが問題なのではない。
快楽を求めることが問題なのでもない。
問題なのは、その欲望に自分の人生を丸ごと明け渡してしまうことだと思う。
パタヤという街は、男の欲望を分かりやすく見せてくる。
酒、夜、女、お金、孤独、快楽。
そこにあるものを、綺麗ごとでなかったことにはできない。
でも、それを見たうえで、どう自由でいるか。
結局、考えるべきことはそこなのだと思う。


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